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「ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言」を読んだ

小中千昭さんの「ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言」を読んだ。

小中千昭さん自身の手によるカバーが既にして怖すぎる。不穏だ。

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前に紹介した「ホラー小説大全」のまえがきにおいて「つまり、ホラー小説とは、いかにして読者を怖がらせるかに腐心するばかりで、真理や美や善を追及したり、人としての道徳を説いたり、高邁な文学的思想や個人的な人生観を披露することなどにはいっさい関心を払わず、読者が戦慄する効果のみを狙った、いわば潔い小説でなければならない。」とあるが、ホラー映画となるとことさらに潔い。

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風間賢二さんの「ホラー小説大全」では日本のホラーについての記述はほぼなく(日本のホラームーブメントについて「日本はアメリカの文化的植民地国ですから。」とまで言われる始末)、また西欧ともまた異なる道を辿ったと見るべきことからこちらも並べて読むと面白い。

奇しくも本書も冒頭で「この本は、ファンダメンタルなホラー映画について書かれている。原理主義的なるホラー映画とは何かというと、「本当に怖い映画」のことを、私はこう呼んでいる。」とある。この本は、本当に怖い映画とはかくあるべしということについて実践的に述べている。

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日本ホラー映画の巨頭となり、ホラーに日の目を見させたのはやはり中田秀夫監督の「リング」清水崇監督の「呪怨」であろう。しかし、とても対照的なこの二作品はなぜマイルストーンと成りえたのか。それはこれらの映画が「本当に怖い映画」であったからだ。

今でこそジャパニーズ・ホラーなどと呼び日本独自の感覚に由来するとのような言説もみられるが、本書を読むと必ずしもそうではなくかなり構造的に怖さを追求した結果表れてきたものなのではないかと感じられる。例えば本書で具体的に説明される「恐怖の方程式」(<小中理論>)では「因縁話は少しも怖くない」や「登場人物を物語内で殺さない」など日本の古典的怪談話は否定されている。むしろ、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」やオリジナルビデオ映画などの疑似ドキュメンタリにある独特のリアリティこそが源流であるようだ。

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この本はホラー映画の「恐怖」を解体して説明していく。しかし、ファンダメンタルなホラーはそもそも本能的なものであり、説明は恐怖を解消させはしない。この本を読むとホラーが一層楽しいものになるだろう。

現在は河出書房新社の「恐怖の作法: ホラー映画の技術」に本書の改訂版が含まれているようだが未確認。