「ライヴ・ガールズ」を読んだ
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GIRLS文字は赤い閃光を放っており、GIRLSのIはチカチカと明滅し、かすかにジージーと音を発している。ネオンサインは他の店と比べると小さかった――幅は五フィートたらず、高さは六フィートくらいだろう。店先は真っ暗だった。他にネオンはなく、明かりもなく、戸口にはドアのかわりに黒いカーテンが垂れ下がっているだけである。
正直に告白するとエロい小説が読みたくて買った。
レイ・ガートンの「ライヴ・ガールズ」を読んだ。女吸血鬼が男のナニを咥えて血を吸う、という設定を聞いてはエロを期待せざるを得ないだろう。
本書はホラー小説界におこったスプラッタパンクという流れの代表とも言える作品らしい。「スプラッタ splatter」つまり「ビチャビチャバチャバチャ」の愉悦。それはセックスでありバイオレンス。「ライヴ・ガールズ」はそういう小説なのだ。上の告白になにを今さら恥じることがあろうか。
(余談になりますが藤田新策さんの表紙絵、やはり素敵ですね。)
舞台は都市ニューヨーク、タイムズスクエア。そこで覗き部屋「ライヴ・ガールズ」に関わることになった二人の男を主人公に話は進む。
しかし読み進んでみると当初の期待は大きく裏切られることになる。いや、確かにエロくないわけではない*1。スプラッタな描写も出てくる。が、それ以前にこの小説は「吸血鬼小説」なのだ。
訳者あとがきで風間賢二さんが書いている通り、旧来「あくまで外部からやってくる退治されるべきオブジェ」であった吸血鬼だが、本書では都市の内に巣くう「我が隣人」として描かれている。モダンホラーにおいて、あるいは現代の都市において吸血鬼を描くとすればどうなるか。吸血鬼小説がこれまで舞台としてきた田舎の町や閉鎖された家に対して、都市はそもそもの仕組みからして外部から人を我が血として流入させつづけるものである。都市において「外部からの侵犯者」は成立しない。
また「血」が元々は人の霊性・魂を意味していたとすると、現代においてヒトは霊的であるよりもまず肉体的、クライヴ・バーカーではないが「血のつまった袋」である。とするなら、隠喩を飛び越えてより肉体的な表現になるのが自然というものだ。
それ以外にも、吸血鬼ではおなじみの「誘惑される女性」*2というイメージに対して本書で誘惑されるのは男性であり、男もまた弱き人として描かれている。
レイ・ガートンの著者紹介に「全篇を彩る悪趣味な感覚」とあるが、「ライヴ・ガールズ」は「悪趣味」だろうか?
これははっきり言って営業妨害、全き侮辱かもしれないが、僕はむしろ上品さを感じた。
それは例えば、吸血鬼化した(しかも人を殺した)人物に対してあまりにさらりと「いいさ、ゆるすよ(中略)あんたがそうせずにはいられないってことを、俺は知ってたんだから」と言ったりとか、自分の血を吸った人物に対して「いいさ。(中略)彼女にはそうする必要があったんだから」と言い切る場面に表れている。他の部分でもこうした雰囲気は常に感じられる。登場人物にほとんど何の葛藤描写もなく「フリークス」を「隣人」としてその在り方のままに受け入れさせる。こんな書き方ができるだろうか。
- 作者:レイ・ガートン
- メディア: 文庫
以上、うだうだと書いたが、そんなことを考えずとも「スプラッタパンク」の名に恥じぬ映画的で派手な面白い一冊で、久しぶりに一気読みした。最後に一つ。ケイシー・ソーン、可愛いよね。
読書中。ケイシー、可愛い。食い殺されないと良いが。
— amabiee (@amabiee) 2020年6月5日
この本も風間賢二さんの「ホラー小説大全〔増補版〕」で知った。