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「<芸術>なぜ悪い 「バイロス画集事件」顛末記録」を読んだ

1981年に発行された奢灞都館(以下、サバト館)の「<芸術>なぜ悪い 「バイロス画集事件」顛末記録」を読んだ。当時定価600円、全72ページ。

本書は、サバト館の出版したフランツ・フォン・バイロス侯爵の画集が1979年に猥褻図画販売容疑で摘発された事件についてことの顛末をまとめたものである。

サバト館はフランス文学者でバタイユマンディアルグセリーヌなどを翻訳した生田耕作さんの出版社で妻の広政かをるさんが社長を務めた。

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僕はこの件に関して研究者ではないし強い意見も持たないため、単純に本書のみを読んだ感想を書く。

まずは概要。

生田耕作さんが編集しこのサバト館が出版したオーストリアの画家フランツ・フォン・バイロス侯爵の画集が(サバト館は神戸にあったが)神奈川県警により猥褻図画販売(及び所持)容疑で摘発され、広政かをるさんが逮捕され生田さんも同容疑で書類送検された。バイロス画集には男女の性器が描かれた十数点の裸体画が含まれておりそれが問題視されたとされる。

最終的に翌1980年に横浜地検は「起訴猶予処分」とした。

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本書の冒頭にはその画集からバイロス侯爵(1866~1924年)が己の作品についてあからさまに語った「私のモラル」という文章が載せられている。これそのものがそのまま本事件への批判になっている素晴らしい文章である。

ところでそもそもなぜ僕がこの出版物を手に取るに至ったかと言えば「生田耕作」という人物に興味があったからだ。

猥褻論争と言うと僕は澁澤龍彦さんが被告人となった1961年の所謂「サド裁判悪徳の栄え事件)」を思い出すのだが生田さんも当然その顛末はご存知であっただろう。実際毎日新聞に澁澤さんがこの「バイロス画集事件」に寄せた短いコメントが本書にも載っている。

しかしこの「バイロス画集事件」には「生田耕作」という人柄が出ていて大変興味深い。

例えば生田耕作さんはこの事件で書類送検された後「以前から辞めたいと考えていたんです。今の京大にはティーチャーはいても、プロフェッサーはいませんから……」と言い、京都大学の教授職を自ら辞している(名誉教授となったが)。このときには仏文科の学生たちが「京大最後の粋人」と呼んで慰留工作に動いたなどと記事に載っている。

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本事件を面白くしているのは、同じ1979年に大島渚さんが監督した映画「愛のコリーダ」に関する書籍が猥褻物頒布等の罪で起訴された「愛のコリーダ裁判」があったことである。

本書の最初には映画評論家の斎藤正治さんが「ぱふ」に寄せた「「バイロス画集」押収事件の編者・生田耕作教授の闘争理念に対する私の基本的な疑問点」という記事が載っている。

その「疑問点」とは、生田耕作さんがこの事件を「芸術か、ワイセツかで争う」と述べたが「ワイセツなぜ悪い」を争点にすべきではないか、という点である。「愛のコリーダ裁判」において大島渚さんが「ワイセツこそ自由だ」と主張したことを挙げて「「芸術かワイセツか」の設問は、時代遅れである。」と言っている。

ようするに「バイロスの画集はワイセツではなく芸術であるから問題ないのだ」と主張するのではなく「ワイセツなもの(低俗な出版物)であっても出版言論の自由のためすべからく許されるべきだ」と主張すべきだというのである。

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これに対する生田耕作さんの返答は以下のようなものだ*1

わたくしはワイセツ裁判そのものにはまったく興味を持ち合わせておらず、(中略)わたくしにとって関心があるのは、自分の編集した『バイロス画集』が<ワイセツ>図画容疑とかのかどで強制押収され、販売を禁止されたことにからんでの、官憲の処置に対する憤慨と、それへの抵抗という一回限りの特殊事象であり、『バイロス画集』以外の図書が他にも同じようにワイセツの疑いで過去に摘発され、また現に摘発されつつあろうと、それはそれで別個に考えるべき問題であると受け取っている。
(「日本読書新聞」1980年4月7日)

昨今においてもこの種の表現に関する論争は後を絶たないが、僕はこの生田さんの態度を大変好ましく思う。

生田耕作さんは「バイロス画集」を愛していたのであってそれ以上でも以下でもない。

インタビューでも同様のことを書いているが、こうした個々の問題を個別に議論し積み上げることが重要であり「十把一絡に論ずるわけにはいかない」し、そうすべきではないだろう。

この「<芸術>なぜ悪い -斎藤正治氏の公開質問に答える-」はこれだけでも是非とも読んで頂きたい痛快な文章である。教科書に載せるべきだ。

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それでは何をもってバイロスを<芸術>と断じるのか?生田さんは「<芸術>と<ワイセツ>とをはっきりした対立概念として持ち出すつもりはない」し「いまだ一人として<美>と<芸術>の完璧な定義を打ち立てた者はいない」とした上で以下のように述べる:

『バイロス画集』にかんする限り、これをワイセツと見なす自由は官憲にない。なぜならバイロスの作品は<美>であって<ワイセツ>ではないからである。どうして<美>であって<ワイセツ>でないと言い切れるか、それは<美>に敏感で、<ワイセツ>を嫌うわたくしがそう判定するからである。こと芸術にかかわる問題に、<美>に鈍感で<ワイセツ>に敏感な官憲ごときが口出しすることをわたくしはだんじて許せないし、黙って引き退るわけにはいかないのである。
(「日本読書新聞」1980年4月7日)

これぞ<美>のジャイアニズム*2

無論これだけの話、理由ではないのだがこの部分はいつ読んでも本当に痛快。

これに続き「ぱふ」誌上の生田さん、斎藤正治さんへのインタビュー、<生田vs斎藤>の対談が掲載されている他、神戸新聞を中心に関係する記事が載せられている。

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その他にも生田耕作さんの生の声が感じられる大変面白い内容です。

特に最初のインタビュー記事では憤りすぎて面白すぎる文章が満載です。大島渚さんに対しては映画をノーカットではなく「ズタズタに切られたものの上映を許すこと」を批判し「結局金儲けしたいだけで、彼も企業の一員に過ぎない」とか「プライドがなさすぎ」るとか述べているし、斎藤正治さんが取り上げた五木寛之さんの「四畳半襖の下張」事件における発言を「あれは一体何ですか。頭の悪さの見本ですよ。ぼくには何べん読んでもさっぱり意味がわからない。」などと述べている。

後の対談では軟化した物言いになってはいるが本音のところでは一貫して意見を変えてはいない。

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しかしきっとこんな本を読むくらいならば、バイロスの絵を見て美にふれることが「「バイロス」の絵を今後も多くの人々に見せ、よろこびを共にわかちたい」と述べた生田さんの本意にかなうのだろう。

*1:無論ここに一部分を切り出すことによって生田さんの本意を曲げて伝えてしまっているかもしれない。全文を読むべし。

*2:「ダンディズム」と言った方が良いか。