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「おれのインターネット」。タイトル通りのブログ。ただし、内容はまったくパンクではありません。

「悪魔の機械」を読んだ

K・W・ジーターの「悪魔の機械」(ハヤカワ文庫FT128)を読んだ。

いまや様々な分野において多くのファンを生み出し、一大ジャンルにまでなっている「スチームパンク」の開祖とも言える三人のうちの一人がジーターであり、また「スチームパンク」という言葉を考え出したのが何を隠そうこのジーターであるとされている。

本作はジェイムズ・P・ブレイロック「ホムンクルス」、ティム・パワーズ「アヌビスの門」と並ぶまさにスチームパンクの原典である。

そして「悪魔の機械」はスチームパンクの最初にして既にスチームパンクを逸脱している。

スチームパンクは現在、蒸気機関を中心とした前世紀的な機械で未来的な技術を実現していることやそれを軸とした文化に焦点が当てられているようだが、本作は「マッド・ビクトリアン・ファンタジー」と呼ぶ方がしっくりくる。

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上の表紙は傷みがはげしいが意外とそれを気に入ってもいる。

実はこの作品、最初の数ページに何が起るかは大体記されている。とは言え、それを読んだところでチンプンカンプンで読み終わるまでは何のことやらさっぱりわからないはずだ。その位にイカレている。

ちょっと抜き出してみると「聖モンクフィッシュ」「王立科学会(ロイヤル・アンチ・ソサエティ)」「神聖防衛隊」「ヘルメス航宙球」「緑の乙女(グリーン・ガール)」「肉欲の罪防止婦人連盟」「自動人形聖歌隊」などなど単語をみるだけで何やら分かるような分らぬような……。

主人公の時計商ジョージ・ダウアーは小心で無能な男である。彼の特筆すべき点はその亡父が数々の超機械を発明した稀代のマッドサイエンティストであったことだけだ。彼はそのおかげでわけの分らぬことに巻き込まれ、あれよあれよととんでもないことに翻弄され続ける*1。彼はじたばたともがいてみせるが全ては裏目、これを冒険譚と言うのであれば(ろくなことを何一つしないという点で)「アンチ」ヒーロー的である*2

ようするにこれはコメディなのだ。とんでもなく荒唐無稽で悪趣味で、だがしかしとてつもなく面白いファンタジー喜劇。

本作の魅力の一端はその登場人物にもある。話をかき回しにかき回すグレアム・スケープと美貌のマクセン嬢。まさに「ふしぎの海のナディア」のグランディス一味のようでいて、それ以上にぶっ飛んでいる。加えて下僕のクレフと犬の「アベル」に、謎の「革肌の男」。

こんな登場人物がドタバタ劇を繰り広げながら最後に世界を救う(それもとんでもない方法で)のだから面白くないわけがない。

終盤の「黙示録に予言された七つの頭を有する怪獣」が登場する場面はファンタジー界屈指の名場面で大いに笑った。

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単純に「近代荒唐無稽小説」として読んでも面白いが、終盤に明かされるダウアー出生の秘密などは同じジーターの「ドクター・アダー」や「グラス・ハンマー」と共通の世界観であるように思える。

K・W・ジーターと言えば本作と並んでSF作品「ドクター・アダー」が知られている。こちらも「サイバーパンク」という言葉に先駆けて発表された「サイバーパンク小説」と呼ばれながらも、既にサイバーパンクを逸脱したぶっ飛んだ名作だ。

ようするにジーターの想像力は一つの枠組みに収まりきるようなものではないということだろう。

字面から「スチームパンクとはこういうものだ」と決めて自ら創作の枠をはめてしまっている諸兄姉各位には是非これを読んで「こんなことまでして良いんだ」ということを頭に叩き込んで頂きたい。

*1:こうした父と息子の関係は他のジーター作品にもみられる。

*2:解説の山岸真さんは「蒸気時代の馬鹿(スチームパー)」と書いている。

みるずかん・かんじるずかん「えもじ」を読んだ

みるずかん・かんじるずかん<銀の本>シリーズの中の一冊、谷川俊太郎さん・文、堀内誠一さん・構成の「えもじ」を読んだ。

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まず「絵文字」を取り上げているところが大変面白いが、それに加えて谷川さんの優しい文章と堀内さんの秀逸すぎるレイアウトが魅力的です。

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上は「おこりきんし」の絵文字。

家庭のなかの絵文字、取扱い方の記号、街のなかの絵文字、日本の道路標識、案内標識、動物横断標識、動物シンボルクイズ、地図の記号、日本の家紋、「男、女、子ども」、オリンピック競技の絵文字、さまざまな標識、統計図表への応用、ホボサイン、絵文字から絵ことばへ、……と31ページに様々な絵文字が取り上げられており、子どものみならず大人にとってもとても興味深い内容になっています。

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構成はさすがの堀内誠一さんとあって、記号の大きさや配置、密度などにメリハリがあって眺めているだけでも決して飽きさせません。

余談になりますが、谷川俊太郎さんが文を書いて堀内誠一さんが絵を担当していると言えば同じ福音館書店の「たくさんのふしぎ」の創刊号「いっぽんの鉛筆のむこうに」もそうだったな*1

絵文字と聞くと記号ばかりの平面的な内容になりそうなものですが写真も交えて「えもじ」の世界を広く紹介しています。

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上のように「ピクトグラム」と言ってしまうとこんなものまで含めて良いのかな?と思ってしまうものも載せられていて、えもじ一つにこんなに様々な楽しみ方があるのかと気がつかされます。

「案内標識」「オリンピック競技の絵文字」では国などの違いによって同じものを表現するピクトグラムがどのように変化するのか、を並べて示していて面白い。

途中に登場する「動物シンボルクイズ」の記号のデザインは安野光雅さん、「地図の記号」に寄せられた「フランスの鉄道と観光地図」は堀内誠一さんが手がけたものだ*2

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僕はとりわけ堀内誠一さんの描く地図が大好きなのだが、そこに書き込まれた小さな記号のデザインにまで気を配ったことは無かったナァ。

アメリカを放浪する人たち(ホボと呼ばれる)が互いに情報を共有するために歩道や塀に書きつけた「ホボサイン(Hobo signs)」。それぞれの記号の意味が独特で他の絵文字にはない味があり、とても気になる。「この町では酒がのめる」という意味の記号とかある。

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「絵文字から絵ことばへ」では太田幸夫さんの視覚言語LoCoS(ロコス)まで紹介されています。

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子どもが色々な角度から興味をもって楽しめて、大人も知らないことが書かれている。とてもすばらしい一冊だと思います。

amabiee.hatenablog.com

*1:「えもじ」は1987年発行、「いっぽんの鉛筆のむこうに」は1985年。他にも「マザーグースのうた」など、お二人の共作はいくつかみられます。

*2:どうも安野光雅さんの動物のシンボルは福音館書店の「にほんご」で描かれたものだと思われる。堀内誠一さんの地図の出典は知らず。

「クノップフの世紀」を読んだ

奢灞都館から1995年に発行された生田耕作さんの「クノップフの世紀 ―絵画と魔術―」を読んだ。当時定価3500円、57ページ。

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内容としては1983年のNHK日曜美術館」の放送原稿をフェルナン・クノップフを中心にフェリシアン・ロップスなど象徴派の絵画とともにまとめた小冊子です。「ベルギー象徴派展」に合わせて放送されたものらしく、生田耕作さんと司会の対話形式です*1

表紙は1889年のクノップフ「天使」から切り取ったもの。

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クノップフの絵画における「象徴」がどのように読み解かれるのか、またどのようにしてクノップフの絵画が生み出されるに至ったのか、が短いながらも丁寧に説明されています。

例えば上の「愛撫」では描かれたスフィンクスとメルクリウス神から画面の奥に秘められた意味・象徴を解釈しています。

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またクノップフへの影響として、とりわけ作家であり「薔薇十字会」の主催者であったジョゼファン・ペラダンエリファス・レヴィの「高等魔術の教理と祭儀」などいわゆる「魔術」との深い関係性にふれています*2

クノップフに強い影響を与えたとされるペラダン自身「芸術家よ、そなたは魔術師である。「芸術」は大いなる秘蹟であり、芸術のみがわれわれの不滅性の証しである。」と述べており、象徴派においては「魔術」と「芸術」は分かちがたく、言わば同一です。

生田 (中略)「魔術」というのは、私は人間が一番知りたがっている問題、それに答えてくれる学問だと思います。一番知りたがっている問題というのは、(中略)やはり<生命とは何か>、<霊魂とは何か>、<存在とは何か>、<宇宙とは何か>、それからもし霊魂があるとすれば、霊魂はいずこより来たり、いずこへ去るか、つまり死後はどうなるかという、この大問題だと思うんです。
生田耕作クノップフの世紀」P45)

上のような問題は、本来「哲学」が扱う問題とされながら、これまで明確な答えを出すことができなかった。一方で、レヴィなどがこれに明確な答えを示したため、当時の文学者・芸術家に強い衝撃を与えたと言っている。生田さんが「魔術」をこのように説明し、「綜合的宇宙学」と呼んでいるのは大変に面白い。

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しかしこうした象徴を解さなくても「クノップフの作品は芸術的完成度において最高のもの」であり「誰でも美的陶酔に浸ることができる」と述べていて、生田さんがクノップフの絵画を愛していたことが伝わってきます。

そして最後のあたりになると生田節がさく裂しはじめます。

生田 (中略)<大衆文化社会>という言葉に象徴されるように、芸術・文学の領域においてまでも、出来るだけ多くの人間に理解されやすい、受け入れられやすいものだけが持て囃され、一言で言えば、低俗と量産が巾をきかせている現代です。
 そんな中で、クノップフに代表される象徴派の画家たちの大衆を見下した高踏的な作風に接しますと、まったく、砂漠でオアシスに出会ったような思いがいたします。
生田耕作クノップフの世紀」P53)

「大衆を見下した高踏的な作風」を「オアシス」と呼ぶ感覚がダンディズムとデカダンスを愛していたであろう生田さんらしく、笑ってしまう。

生田 (中略)しかし、全般的には<文学的絵画>はクノップフでもって終わりを告げて、あとは<非文学的絵画>といいますか、まず<印象派>に始まり、最後は<アブストラクト><モダン・アート>に行きつく、内容のない、奥行きのない、薄っぺらな美術がクノップフの亡くなったあと目白押しに勃興して、今日も隆盛をきわめているということになりますね。
生田耕作クノップフの世紀」P55)

近代芸術の最高傑作の一つと言われるミレーの「種まく人」を<最低の絵画>と言い切ったペラダンのごとくに。

amabiee.hatenablog.com

*1:NHKクロニクルによれば、1983年2月6日に「私とクノッブフ」として放送されたものだと思われる。

*2:人文書院から出ているエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」の翻訳は生田耕作さんの手による。